”気”とは何か -平穏堂が考える”気”の定義ー

平穏堂で”気”とは”物理法則にしたがうすべての物質・空間・力(エネルギー)”、つまり自然に存在する万物、森羅万象を言います。いわゆる気功で用いられるところの”気”ではありませんのでご留意ください。

 

”物理法則にしたがうすべての物質・空間・力(エネルギー)”を”気”として一元的に扱うのは、複雑な自然現象を単純化し、少ない労力で把握しやすくする方便です。

 

平穏堂では、すべての症状は”気”の不足(虚)が原因で生じると仮定しています。

この場合の”気”は”物質・空間・力(エネルギー)”のうち”ヒトが生き続ける力(エネルギー)”です。

そして原因である”気”の不足を、鍼・灸・マッサージの刺激で補うことにより症状の改善を行えると考え施術しております。

 

”ヒトが生き続ける力”は直接見ることはできません。ですが皮膚を押したときの反応や動作速度といった他覚的要素から間接的に多寡を推測できます。

 

例えば強く押しても全く反応しないヒトであれば”生き続ける力”は少なくなっているといえます。また、ちょっと押しただけで”すごく痛い!”と反応する方は”生き続ける力”はまだ残っているが痛みを感じる場所で力(エネルギー)を余計に消耗している状況にある、と推測できます。

 

”気”は物理法則にしたがうので、重力下では温めれば上昇し、冷やせば下に向かいます。無重力下では温めれば拡散し、冷やせば滞留します。ヒトも暑いとのぼせ、寒いと縮こまります。

 

”気”には濃淡(=密度)があります。ひとつの”気”に注目して隣り合った場所を比較したとき、濃いほうを便宜的に”陰”、薄いほうを”陽”として分けます。濃い方(陰)は動きづらく、薄い方(陽)が活発に動きやすいと考えます。

 

ヒトの目で直接見える”気”もあれば、直接的に見えない”気”もあります。

これは観測精度で見えたり見えなかったりする(極小極大、極近極遠)場合と、視線が通らないから見えない(野球のボールの表面は見えてもボールの内側は見えない)場合などがあります。視線が通らない場合でも振動や超音波、あるいはX線などで非破壊検査をしたり、切断等をおこなうことで視点を変えて直接見るなどの手段で観測が可能です。ヒトでいえば直接見える皮ふの表面は陽で、皮膚の内部や皮ふで覆われているすべての内臓は陰です。

 

”気”は相互作用を起こします。そのため直接見えない”気”も間接的に観測したり、類似の”気”から理論的に存在やその様子を予測・推測したりできます。

ヒトでいえば直接見えない内臓の調子である”陰”の”気”を、直接見られるそのヒトの動作の通常時との比較、各種の痛み(動作時痛、自発痛、圧痛など)、熱感/冷感、かゆみ、あるいは尿検査などの結果数値といった”陽”の”気”から推測できます。

 

相互作用を起こさず、観測できなかったり、理論的に存在が予想できないモノはその時点では”気”として扱いません。(観測精度が上がったり、理論が更新されたりで存在が観測・予測できたものはその時点で”気”として扱います)

 

”気”で直接見える範囲は陽、間接的に見える範囲は陰と便宜的に分類します。

 

”気”には序列を持った重層構造を与えます。序列を持った重層構造を与えることによって、複雑な自然現象を象徴させることが可能になります。

序列を持った重層構造の例としては、陽の”気”のなかでも見えやすい範囲は陽の陽、見えづらい範囲は陽の陰、といったところです。これを繰り返すと八卦や五行など自然現象の象徴化ができます。