”冷え”とは何か -平穏堂が考える”冷え”の定義ー

平穏堂では”冷え”を、ヒトが”生き続ける力(エネルギー)”を異常に消費し、消耗した状態と考えています。

 

なんらかの原因でエネルギーを異常に多く消費すると、通常のエネルギー生産量では生命維持に回す分が不足します。そのとき、たまたまエネルギーが回せなくなった機能(ヒトによって異なる)に不調、つまり病が生じると考えています。例を挙げると”季節の変わり目に風邪をひく”ような感じです。

 

お金で例えると、急にお祝い事が続いて思いがけない出費があって、仕方なく食費を削ることにして次の給料日まで毎日塩パスタと水でしのぐ、といったところです。こちらの冷えは切っ掛けと影響範囲が見積りやすいため必要とする刺激量も比較的少なく、予後も判断しやすいです。

 

別な冷えとして、器質的な不調がその不調がエネルギーを異常消費するためにエネルギーの生産量が十分にあっても、全体的なエネルギーが不足するタイプの冷えがあります。例を挙げるとケガや事故での後遺症(古傷)や、内臓疾患などが相当します。

 

 

お金で例えると、高給取りだけども大変な浪費家のため、延々と塩パスタと水でしのいで生きている、といったところです。こちらは深い冷えと判断でき、総じて刺激量が多くなります。時間がかかるかどうかは用いる手法によります。ここの記述に従えば、もっと高給取りになるか、浪費をやめるかの2択ですがいずれもすぐに変化させるのは難しいでしょう。

 

もともとヒトは生き続けるために、呼吸と食事によって”生き続けるための力(エネルギー)”を作り続けています。これは呼吸と食事のどちらを止めても死に至ることから自明です。

つくられたエネルギーは生命維持に使われるため、つねにつくられたそばから消費されます。それが通常の消費です。内外の状況に変化が無ければ単位時間あたりに一定値を消費し、生産量と消費量は釣り合っています。

 

お金で例えると、月給の手取りに合わせて予算(固定費(家賃等)+変動費(食費その他))を決めて生活するようなものです。

 

ヒトのエネルギー生産機能には余裕があります。その余裕の多寡は余命に比例します。つまり若いころは多くの余裕を持ち、年をとるにつれ余裕が少なくなります。

 

この余裕をお金で例えると、預貯金、あるいは現金以外の金融資産に相当します。ただ若い時は少なく、年をとると多くなる(ヒトによりますが)のがエネルギー生産機能とは違う点です。

 

”生き続ける力(エネルギー)”を異常に消費するのは内外の状況に変化が生じ、それに適応しなければならないときです。

 

例えば、季節の変わり目はそれまでの季節に適応していたからだでは不都合が生じます。冬から春の変わり目であれば冬の日中10度以下を寒く感じないよう適応していたからだでは春の日中20度を暑く感じます。

そこでヒトは自らを状況に適応させるため、生産機能の余裕を使い通常より多くエネルギーを生み出し自らを変化させます。

 

若いうちは生産機能の余裕が多いため、状況の変化にすぐに適応できます。

ですが、年をとると余裕が少なくなっており十分なエネルギーを生み出せないため状況への適応が不十分になりがちです。すると通常の生命維持に手が回らなります。その結果、手足が冷える、風邪をひくなどのさまざまな不調が現れます。

精神肉体のどこに異常がでるかは個人差がありますが、古傷や、日常的に受けているストレスに関係深いところに出やすいと平穏堂では考えています。

 

平穏堂では冷えに対して、まず異常に消費したエネルギーを皮ふへの刺激のよって補います。次に消費がはげしい部位があればその理由を突き止めエネルギー消費がおだやかになるよう対処します。そうすることで状況の変化への適応を後押しし、通常でのエネルギー消費量も減らし、代わりに余裕を増やすようにしております。