自分の『普通』を疑えるようになると疲れにくくなる

こんにちは。平穏堂院長の田上俊和です。

本日の「疲れにくくなる暮らし方」は

「自分の『普通』を疑えるようになると疲れにくくなる」です。

 人は「自分の価値を認める」ことで幸せを感じます。

 そして人は「自分の価値を認める」目的で、「自分の知識と経験」を一般化し「普通である」と

思い込む、という手段をとることがあります。

その「普通である」との思い込みには落とし穴があります。


 その落とし穴は「過信」です。

人は「自分の知識と経験」を疑ってしまうと「自分の価値」を自分自身で貶めてしまい、

その結果「不幸」となります。

 その「不幸」を回避するため、たとえ少ない事例から導かれた知識、狭い範囲での経験でも、

人はそれを絶対視し、過信してしまいます。

 つまり、もっとたくさんの事例、広い範囲で見た場合、その「普通」は「普通」でない可能性が

あります。

 「普通」でないことを「普通」としてしまえば、周囲との齟齬が生じます。そして齟齬を

解消するために疲れることになります。


 ではどうすれば周囲との齟齬が少なくなるか。

それは「自分の『普通』は本当に『普通』なのか?」と疑い、より多数の事例や広い範囲で見て

内容の再確認を行うことで可能となります。


従って「自分の『普通』を疑えるようになると疲れにくくなる」となります。


次回(12/13)は、「自己肯定と自己受容の違いに気付くと疲れにくくなる」です。


○「普通」と「当然」と「べき論」

   

   人は「○○は××することが普通」「○○は××するのが当然」「○○は××するべき」

  と、自分の考えが正しく、相手はそれに従うべきと考えることがあります。

  その目的は「相手を自分の思い通りに動かす」ことにあります。

  つまり「~普通」「~当然」「~べき」は手段でしかありませんので、

  自分自身に都合が悪い状況になればあっさりと例外処理を行い「俺は××しなくてもいい」

  とします。所謂ダブルスタンダードです。

   ダブルスタンダードを使う人は、自分のためになればそれでOKとするため、

  ダブルスタンダードを使っているという認識はありません。

  ですので「それはダブルスタンダードじゃないか」と指摘しても「どこが?俺はいいんだよ」

  と逃げ(本人は逃げではなく正当なつもり)ます。そういった人には何をいっても伝わらないので

  触らないようにすることを私はオススメします。


以上